ド・ブロイ公妃

ド・ブロイ公妃
「これが欲しい、これが欲しい…」製糖業者ルイ・セイの孫娘、マリー=シャルロット=コンスタンス・セイ(1857年ー1943年)はある日、ブリサック侯爵夫人である姉のジャンヌ・セイ(1848年ー1916年)と一緒にロワール川のほとりを散歩していたとき、こう言いました。ショーモン・シュール・ロワール城を見て、すっかり気に入ってしまったのです。1875年3月17日、マリー・セイは17歳でショーモン城と1025ヘクタールの領地の所有者となりました。

1875年6月7日には、パリのマドレーヌ教会にてアンリ=アメデ・ド・ブロイ公と結婚しました。

すでに両親を亡くしていたマリー・セイは、資産として金貨1200万フランとショーモン城、およびパリ・ソルフェリノー通り10番地に所有していた個人邸宅を夫にもたらしました。当時フランスでこれほどの財産を所有していたのは、ロスチャイルド家を除いて他にありません。結婚後間もなく、ブロイ公妃はショーモン城を 常居とし、半世紀にわたってこの豪奢な城で絢爛たる饗宴が催されることになります。

ショーモン城の大客間(写真 Eric Sander©)

ブロイ夫妻と大変親しかったダンディ、ガブリエル=ルイ・プリンゲ(1885年ー1965年) は、何十年にもわたって、晩秋の頃の3ヶ月、そして夏の1ヶ月をショーモン城で過ごしました。彼は、当時フランスはもちろんヨーロッパでも最も名高い館の一つに数えられたこの城での長い滞在経験から、特にこの頃の城の日常生活を綴った『30 ans de dîners en ville』(町での夕食30年記)という本を書きました。歴史的事実に関しての彼の知識が正しいという確証はないとしても、ブロイ家の生活についての記録が全く貴重なものであることは間違いありません。

ブロイ公妃は、1年のうち少なくとも6ヶ月はこの城に住みましたが、その間、週末のみの招待客とは別に常に15人ほどの客が数週間城に滞在していました。公妃は、ほとんどが「王室、皇室関係者」であったこの人たちを「仮住まいの客」と呼んでいました。ヨーロッパや近東の君主(イギリス王エドワード7世、ポルトガル王カルルシュ1世、ルーマニア王カロル1世、カプールタラ、ヴァドーダラー、パティヤーラーのマハラジャ)や、著名な学者や有名な芸術家(シャルル・ル・バルジー、フランシス・プランテ、フランシス・プーランク、マルグリット・ドゥヴァル)が数多くショーモン城を訪れました。

会食の間(写真 Eric Sander©)

 ブロイ公妃は、気まぐれで、とどまるところを知らない空想力を持った女性でした。長所がたくさんある中で、1つだけ大きな欠点がありました。ルールや規律を嫌い、城の料理長や執事でも参ってしまうほど、時間にルーズだったのです。何時に料理を出して良いのか分からない料理長は、同じタイプのディナーをいくつも用意して(11品あまりの料理とデザート)いつでも出せるようにしていました。

1905年、クロニエの破綻が破産を招きます。しかし、ブロイ公の賢明な資産運用のおかげで、公妃の個人財産だけは守ることができました。それでも、長男アルベール・ド・ブロイ公(1876年ー1922年)と末弟ジャック・ド・ブロイ(1878年−1974年)、次女マルグリット・ド・ブロイ公女(1883年ー1973年)の立会いのもとに親族会が開かれます。これまでの贅沢な暮らしについて長時間議論が行われた後、アメデ・ド・ブロイ公妃はこう結論を下しました:「これからは生活費を切り詰めなければいけないのだから、おやつのプチ・バンとフォアグラはやめにしましょう」。 フォアグラはなくなるにしても、ショーモン城での暮らしはこれまで通り続いていくのでした。

ド・ブロイ公妃

 クロニエの破綻から数年後の1917年11月に、ブロイ公が亡くなります。資産運用に長けていた彼は、1875年からショーモン・シュール・ロワールの領地拡大に努めました。しかしブロイ公妃には運用管理の概念が全くなかったため、事業を中断させたまま放っておくことが多くなりました。そんな中、1929年の株式市場暴落で、公妃は数百万フランにのぼる損失を被ります。

1930年9月19日、公妃はロンドンで、スペイン親王ルイス・フェルナンド・デ・オルレアン・ブルボン(1888年ー1945年)と再婚。このとき、公妃は72歳、親王はわずか43歳でした。

巨額の財産を持っていたにもかかわらず、様々な財政的不運が重なり、公妃はパリ・ソルフェリーノ通り10番地の個人邸宅の売買とショーモンの領地の分割を余儀なくされ、また様々な美術工芸品を手放さなければならくなります。

1937年10月12日には、国家がブロワ第一番裁判所を通して公益理由による収用を命じ、その代償として、歴史的記念建造物保護金庫から特別に金貨180万フランが公妃に支払われることになりました。国家への正式な引渡しは1938年8月1日に行われました。

公妃はその後パリの2つのパレスホテル(リッツとジョルジュサンク)やグルネル通りの自分のアパルトマンで余生を送り、1943年7月15日に86歳でこの世を去りました。

地方分権化政策に基づき、ドメーヌ・ド・ショーモン・シュール・ロワールは2007年2月からサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏の所有となっています。